佐助いなりん@!おどろくロケーション

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 旅行などの際には、地元のお稲荷様を探訪するのが好きな私である。今回は湘南鎌倉の佐助稲荷神社に参らせてもらいました。

本来はJR鎌倉駅から歩いて行くのでしょうが、鎌倉大仏さま高徳院を真っ先に訪れたため、大仏さまの東側の裏道で行くことにしました。
この日は台風が近づいていたものの素晴らしい天気で、大変暑くこれからお稲荷山まで登れるかどうか心配になってました。なんせ前日から夜通し運転してきたもので寝不足山登りなんですよ。

裏道なんで観光客は全然見かけないのがよかったです。のんびりですが冷や汗かきながら歩きました。
市役所通りまでは緩やかな坂だったのですが、そこからはだんだん登りがきつくなって最後はやっぱり階段です。

周りの鬱蒼とした森が暑い日差しを遮ってくれるのが唯一の助けになりました。が、寝不足で足が思うように前に出ません。そうこうしているうちに下りになったんで本当に助かりました。

滑る足元に気を取られながらも、佐助稲荷神社の朱の鳥居が見えた時は安堵の気持ちが込み上げました。
裏口から入ったようなものなので、最初に目にしたものは小さな祠でありました。その付近も伏見さまと同じくお山自体が神様のような感じです。今、通ってきた道は夜中では絶対無理なルートでした。(でも行こうと思えば可能)

境内にはベンチなどもありしばし休憩できます。お参りを済ませた後は本来の参道を降りました。
ここは鎌倉の大変閑静な山手住宅地の上にあり、突然朱の鳥居が出現するといったロケーションです。

このあと銭洗い弁天さまに寄りまして、お金を洗って帰りました。 

噂によると商売繁盛、福徳円満を願うなら、銭洗弁財天さまもいっしょに参詣したほうがよいと言われています。
銭洗弁財天さまと佐助稲荷さまは無関係ではないらしいですよ。

由緒説明(湘南プロムナードさまより抜粋)
 佐助稲荷神社は、長い参道には鳥居が並び立ち、赤い幟旗が林立して社殿へと続く。源頼朝が伊豆に流されて病の床にあったとき、当社の神霊が翁の姿に身を変じて夢枕に立ち、挙兵をすすめて助けたという。
 幼時頼朝は佐殿と呼ばれていたが、鎌倉に入った頼朝は佐殿を助けたという意で〈佐助稲荷〉と名づけ、畠山重忠に命じて当社を再興したと伝える。
 佐助稲荷の社伝を見る。頼朝が蛭ガ小島にいたころ、ここの祭神・宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)か翁の姿で夢枕に立ち、挙兵をすすめた。佐殿(すけどの)を助けたので佐助稲荷という。
 建久年間(1190~98)、頼朝は畠山重忠に命じて神社を再建し、山崎の地(神社の西北方、山崎天神や頼朝かくし湯跡がある)を寄進した。
 明治4年の『旧貫御境内記録』には「平地無之峠立の山、鶴岡ハ幡宮非常御旅所境内佐介ガ谷、ハ幡宮御旅所御末社佐介稲荷社」とある。非常の際、ハ幡宮の神輿はここに奉遷されたのである。
 ハ幡宮の御旅所に隠れの里の稲荷社が選らぱれたわけは明らかでない。しかし重忠に社殿再建を命じた頼朝は、すでにこの地を知っていたことになる。
 頼朝の伊豆配流時代、夢枕に立った老翁が宇迦御魂命、また、鎌倉大蔵屋敷の夢枕に立った老人も宇賀福神。話は申し合わせたように一致しており、ところも同じ隠れの里である。
 古語によると宇賀福神の「ウカ」は「奥にある処」から「洞穴」の意。また別の解釈では「最高の食物」つまり「稲」であり、佐助稲荷の祭神につながる。
 ところで隠れの里とは、いわゆる″秘境″である。隠れの里伝説は全国にある。そのほとんどは池のほとり、洞穴に関連かあり、水底や穴の奥は竜宮につながると信じられた。これらの主は美女に変化する竜神、大蛇である。
 こうした秘境は人を寄せつけない。ただし隠れの里の″しきたり″にしたがった者だけが、その里の美女と契ったり、当時は貴重であった膳椀を貨して貰ったという話が残っている。

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by fusimin-inarin | 2011-09-17 10:39 | 番外編


伏見稲荷大社お山日記


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